上野屋蒲鉾と和江の歴史
上野屋蒲鉾店は島根県大田市の和江(わえ)という小さな港町に店を構えています。和江は漁業とかまぼこで有名な人口300人弱の小さな町です。小さな港町ですが、島根県では恵曇(えとも)港(松江市鹿島町)・浜田港(浜田市)に並ぶ水揚げを誇るのがこの和江港です。
和江港では底引き網漁船が出港した同じ日の夕方に戻り、翌朝、早朝より魚の競り市が始まります。全国の大きな港では沖泊まり(海上で泊まる)をして何日も漁を続ける漁船が多いようです。しかし、これでは魚が傷んでしまいます。和江の漁船は必ず漁に出た日の夕方には帰ってきますので魚の鮮度が抜群で、官民一体となって「一日漁」としてブランド化を図っています。
それでは、なぜかまぼこで有名なのでしょうか?
もちろんここには和江で水揚げされる魚が関係してきます。和江の港町としての歴史は古く、語られる限りでは明治の終わりには、盛んな漁業に合わせて魚を売る商人さんが何十人もいたそうです。
それこそ、この小さな和江の港に50を超える魚売りがいたのだとか。氷のない時代ですから日持ちのために魚は塩をして、加工をして売りに歩いたそうです。
そんな加工品の中にかまぼこもありました。その当時はかまぼこを専門で作って商売するのではなく、魚と一緒にかまぼこも売っていたそうです。
ということは、この小さな和江の港にかまぼこ屋さんが何十件もあった事になります。中には大八車に魚を積んで、赤名で一泊して三次(広島県)まで魚とかまぼこを売りに歩いた商人さんもいたようです。
この小さな和江の港にかまぼこ屋さんが何十件もあり、大八車に魚を積んで、赤名で一泊して三次(広島県)まで魚とかまぼこを売りに歩いていた商人、その中の一人が、上野屋初代、中島興吉(ヨキチ)です。
興吉が明治生まれだということは分かっていますが、明治のいつ頃からかまぼこを作り始めたのかは伝えられていません。
伝えられているのは、上野屋の土地が中島家の本家よりも上(高い場所)にあったことから「上野屋」という屋号をつけたということです。マークの○ヨは、興吉のヨからとられたものです。
和江には、この興吉のような商人さんが何人もいて、大田から遠く離れた山間部まで自慢の魚とかまぼこを売りに歩いていたそうです。
夜中の2~3時、まだ暗いうちから大八車に魚やかまぼこなどの加工品をのせて出発し、大森で一泊して翌朝は赤名へ出発、三日目には赤名から三次へ、そしてまた赤名を経由して帰るという一行程5日かかる大変な商いだったといいます。
時代は昭和に移り、上野屋二代目中島元吉の時代。元吉の商いも島根にはとどまりませんでした。静間(上野屋のある町です)に駅ができて、汽車が通るようになるとレールに乗って、遠くは豊岡(兵庫県)まで商いに出ました。かまぼこだけではなく、日持ちの良い炒り子(いりこ)や干し物を売りに歩いていました。
元吉の商いも島根にはとどまりませんでした。静間(上野屋のある町です)に駅ができて、汽車が通るようになるとレールに乗って、遠くは豊岡(兵庫県)まで商いに出ました。かまぼこだけではなく、日持ちの良い炒り子(いりこ)や干し物を売りに歩いていました。
この頃に、昭和から平成と長く商売を続けている和江のかまぼこ屋が生まれたそうです。『あみや』、『丈兵衛』、『松下』、そして『上野屋』です。和江の4件のかまぼこ屋が切磋琢磨して、勤勉に働いたからこそ大田市では和江のかまぼこを珍重して、高級品として使っていただいたそうです。
ちなみに現工場長(僕)の元生という名は、元吉から一字いただいて付けられました。
時代はさらに進みます。
元吉の妻、イサ(工場長のおばあちゃんです)の時代に、上野屋は商売の転機を迎えます。
イサおばあちゃんは上野屋をそれまでのかまぼこも売る魚屋ではなく、かまぼこだけを作る上野屋蒲鉾店に変えました。イサおばあちゃんは本当に働き者で、元吉の辿った道のりをやはり大八車を引いて行商に歩くという細腕ながらたくましい女性でした。
三益愛子のイラスト三益愛子主演の「荷車の歌」という映画がありますが、実は三益愛子と一緒に撮った写真があったのだそうです。あいにく引越しの際になくしたそうで今は残っていません。
お見せできないのが本当に残念ですが、もんぺ姿に手ぬぐいを掛け、大八車を引いて行商に歩いていた当時のことを、「あの映画のモデルは私だよ。」と自慢げに話してくれたそうです。
時代はさらに移り、三代目イサおばあちゃんから、工場長の両親に代が変わり始めた昭和40年頃、かまぼこ業界に革新的な製品が誕生しました。それは冷凍すり身です。
冷凍すり身とはスケトウダラをはじめとする魚を海上、もしくは陸上でかまぼこ用のすり身に加工した製品です。このすり身の特徴は製品にしたときの弾力の強さと保管の長さです。2~3年の冷凍保管が可能でした。
時化(シケ)が自慢の日本海、その当時の和江の船といえば今のように大きな船ではなく、小さな小舟でしたのでちょっとでも白波が立てば海に出ることはできませんでした。そうなればもちろん、かまぼこは作れません。
時を同じくして大田市内に大型スーパーできると、かまぼこを常時供給することが必要になってきました。その後、大田市内に何件ものスーパーがオープンし、かまぼこの需要はたちまち増えてきました。
ですので、海が時化ても毎日かまぼこを製造しなければならなくなりました。当時の上野屋には冷凍すり身は非常に魅力的な製品でした。そこで、上野屋でもこの冷凍すり身を少しずつ使い始めるようになりました。
しかし、冷凍すり身には長期保存という長所もあれば欠点もありました。それは魚の風味が失われていることと弾力が強すぎることです。
上野屋が作り続けてきたかまぼこは魚の風味のしない弾力だけのかまぼこではありません。地魚独特の風味と味、そして柔らかだけど噛むごとに魚の味がジュワッと出てくるかまぼこです。
では、冷凍すり身を使わずに和江の魚だけでかまぼこを作るのか。それでは、お客様にかまぼこを安定して提供することができません。
そこで、冷凍すり身を自分の工場で作ることをイサおばあちゃんと両親は考えました。毎日かまぼこを作り続けるために、魚の風味や旨みの残っているすり身を自分で作れば安定して材料を確保出来ると。
上野屋ではある魚をずっと今まで買い続けてきました。それが、『トラハゼ』です。
トラハゼとは顔と体にトラ模様の入ったハゼのことで、釣りをされる方やスキューバダイビングをされる方には、あまり相手にされていない魚ですが、かまぼこにしたら、抜群の旨みとしなやかな歯応えを作り出してくれます。
しかし、年々トラハゼの水揚げ減ってきましたのでトラハゼ以外の和江の魚にも注目して、レンコ鯛などの冷凍すり身も作り始めました。
レンコダイは白身の風味豊かなしなやかな弾力を持つ、かまぼこに適した魚です。
スーパーが出来てからの忙しさに併せて、地魚のすり身作りは本当に大変だったそうです。ですので、この時代から少しずつ上野屋でも機械化、近代化が進みました。
機械で出来る作業は機械が行なって、作業の行ない易い、衛生的な工場の設計も考えました。すり身製造の工場とかまぼこ製造の工場を別棟に分けて、かまぼこ製造の工場は、『作る』、『加熱』、『冷却』、『保管』と作業工程ごとに部屋を分けました。
そうしてかまぼこの販売、製造の増加に併せて機械化、近代化していった上野屋を現在では工場長、土江元生が引き継いでかまぼこを作っています。
受け継いだのは、和江という土地でかまぼこを作る『地魚を使ってかまぼこを作り続ける』意思です。
そんな工場長ですが、母親からかまぼこ作りを任されるようになって三年目の秋、昔からのお客様に「上野屋の味が変わった」と指摘されました。
かまぼこの製造方法も、材料の配分も母親から教わったとおりに行なって、何も変えていないはずなのに日によって出来上がりが違う。味だけではなく弾力性にもブレがある。確かにお客様が指摘されるとおり、日々違った歯ごたえ、味のかまぼこが出来上がっていました。
そこで、知り合いでかまぼこの研究をしている人に相談をしましたが、地魚をどのように使うかという研究はされておらず、また専門の書籍もありませんでしたので、島根県産業技術センターの方と高知のかまぼこ屋さんと共同で研究会を開くなど、実際にトラハゼを使って弾力の質を確かめながら、使うときの注意点などを検討しました。
それから毎日、冷凍すり身をどの温度帯で使用するか、一番難しいといわれる塩を入れる温度、タイミング、すり身の温度と擂り時間を何度も調整し、加える水や氷の量、そしてタイミングを変えて試行錯誤を繰り返しながら、なんとかその年の暮れには安定してかまぼこを作れるようになりました。
お陰様で、前述の「上野屋の味が変わった」と言われたお客様にも「うまくなった」とお褒めの言葉をいただき、今も変わらずお得意さまとしてごひいきいただいています。
この失敗がなければ、そしてお客様の声を真剣に受け止めていなければ、正直言って今日の上野屋はなかったと思います。
試行錯誤は今でも続いています。
その成果かどうかは分かりませんが、平成17年に開催された『全国蒲鉾品評会』では主催地の『宮城県知事賞』を頂きました。
県知事賞は、イサおばあちゃん、母親が作っていた頃には頂いたことがある賞ですが工場長は初めてでした・・・。
試行錯誤はこれからも続きます。
いま、工場長、土江元生は、受け継いだ『地魚を使ってかまぼこを作り続ける』意思を自分で表現するべく、新たな商品の開発に、和江の地魚を使った美味しいかまぼこ作りに燃えています。
そして、和江のかまぼこを全国に送り出したいという熱い思いに駆られています。
上野屋蒲鉾店 工場長
土江 元生